2016年1月19日火曜日

「学び」の両極端


 ある事態を整理して理解するためには、その事態の両極端を考えてみることが有益です。

アクティブ・ラーニングが「学び」の一種であるとすれば、「学び」の両極端を考えてみることによって、アクティブ・ラーニングの位置づけが見えてくるのではないでしょうか。

ここでは、一つの端を「内発的学習」と呼び、もう片方の端を「外発的教授」と呼びたいと思います。

これはある種の思考実験ですので、さしあたり、「学校」という制度自体をないものとして考える必要があります。学校というシステム自体が非常に強固な枠であることは、以下を読んでいただければよく分かると思います。



ではまず、学習者しかいない世界を想像してみてください。そして、その学習者は、あらゆる物事にとらわれません。「いつ学ぶか」「どこで学ぶか」「何を学ぶか」「誰と学ぶか」「どのように学ぶか」は学習者次第ですし、「学ぶかどうか」すら学習者の自由です。

なかなか想像すら困難な世界ですが、ここで学習が自動的に生じれば、これが究極の「内発的学習」です。最も狭い意味での「学び」と言ってよい。

しかし実際、私たちは自分の身体や周囲の環境によって、かなりの制限を受けた中で学ばざるをえません。「内発的学習」100%の状態は、私たちがモノにしばられる世界を生きている以上不可能であり、いわば仮想の状態です。


さて一方で、教授者が力ずくで学びを強要する世界を想像してみてください。これもなかなか想像自体が困難です。アメで釣ったりムチで脅したりして、無理やり学ばせようとしても、最終的には学習者が「学ぼう」と思わなければ(つまり内発的動機がなければ)学びは成立しませんので、100%「外発的教授」というのは、頭蓋骨を切開し、脳を電極で刺激するなどして、学習者の意志に関わりなく、知識を物理的に刻みつけるような状況です(そんなことが可能かどうかも分かりませんが)。したがって、これも実現不可能な仮想状態です。そして、こういう状況が仮にあるとしても、これはもはや「学び」とは言えないでしょう。

現実に「学び」として認識される営みは、全てこの両極端の中間に存在します(図の中で虹色のリボン(=任意の学習活動)を左右に動かすイメージをもってください)。




「内発的学習」を促すために、大人は子どもにいろいろなきっかけを与えます。面白そうな素材(教材)を目の前にちらつかせたり、笑顔で「学ぶことは楽しいよ」と言ってみたり。これは「外発的教授」の一種です。これらの外からの作用は、もちろん学びにとって有益であり、不可欠なものです。ただし、これらはあくまでも「内発的学習」を尊重しているからこそ有益なのであって、「外発的教授」の割合が高くなると(つまり虹色のリボンが右に寄りすぎると)、学習を阻害することになりかねません。

現在の多くの公教育の現場における「学び」は、虹色のリボンが右に大きく寄った状態です。外発的な要素が多すぎるのです。

①いつ学ぶか(行事予定・時間割)
②どこで学ぶか(学校施設)
③何を学ぶか(学習指導要領・教育課程)
④誰と学ぶか(指定されたグループでの活動)
⑤どのように学ぶか(一律の学習方法)


 これらの要素を、全て学習者の意向を反映させずに決めてきたのがこれまでの公教育の実態ではなかったでしょうか。これを、本来の「学び」の姿、つまり「内発的学習」の側に引き戻そうとするのが「アクティブ・ラーニング」の考え方なのです。

 大きく右側に偏った虹色のリボンを、少しずつ左側に寄せていきませんか、という発想です。

 時間割や教科書をすぐに撤廃するのは拙速としても、「全員が同じ時間で同じ学習内容を終えなければならない」という前提や、「グループ活動はグループの中だけで」という決まりごとは、そろそろ疑ってもよいのではないでしょうか。

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